「私たちはそこから学び、より良い日を迎えられる」RBG最高裁判事
アメリカ連邦最高裁判事を27年間務めたルース・ベイダー・ギンズバーグ氏が2020年9月18日に87歳で亡くなりました。
ギンズバーグ氏は、弁護士、判事として女性の社会進出をバックアップしたことで、若い女性を中心に高い人気を得ていました。
「女性という理由で」
情報調査機関のピュー・リサーチ・センターによると、1960年のアメリカは父親だけが収入を得ている家庭が70%で、共働きは25%。
1933年生まれのギンズバーグ氏が学業を修了し、社会に出た頃のアメリカは男性優位が強い状況でした。
ギンズバーグ氏が結婚し、出産後の1956年にハーバード大法科大学院に進んだ際、1学年500人の大学院生のうち女性はたった9人でした。大学院長が「男性が座るべき座を占める理由を述べよ」とギンズバーグ氏に求めたそうです。
夫の就職のため、ニューヨークのコロンビア大に転院したギンズバーグ氏はトップの成績で卒業しましたが、女性という理由で弁護士事務所に雇ってもらえませんでした。
「スウェーデンの体験が影響を与えた」
ギンズバーグ氏は1962年、スウェーデンに研究者として滞在しました。スウェーデンでは、法学部の学生の4分の1が女性で、共働きは当たり前、女性は妊娠しても仕事を続けることなどの体験をしたギンズバーグ氏は、「目を開かされた」と、アメリカ社会の遅れを認識し、その後の取り組みに大きな影響を与えることになりました。
「巧妙な戦略で女性の地位向上を」
ギンズバーグ氏が1970年代に弁護士として率いたアメリカ自由人権協会(ACLU)の「女性の権利プロジェクト」が、大きな功績として評価を受けました。
当時は、「男性には認められるのに女性には認められない」という法律の規定が数多くありました。そうした性差に基づく差別を問題とする訴訟を次々と最高裁に持ち込み、4年間で5件の違憲判決を勝ち取ったのです。
最高裁の9人の判事が全員が男性だった当時、その理解を得るために「男性が不利な待遇を受けている」という法律を、あえてギンズバーグ氏らは問題としました。「男女は同じ待遇にすべきだ」との理解が広がれば、女性の地位向上にもつながると考えたのです。「男性優先」といった批判もありましたが、「この方針は巧妙な戦略だった」と今では高く評価されています。
「反対意見が社会を動かした」
1993年、当時のクリントン大統領に指名され、ギンズバーグ氏は史上2人目の女性最高裁判事となりました。しかし、レーガン政権2期目の1986年に最高裁長官に就任したレンキスト氏のもとで最高裁が保守的な傾向を強めるなか、判決における影響力は限られましたが、ギンズバーグ氏の鋭い反対意見が注目を集めたのです。
最高裁は2007年、企業で同じ立場の男女に賃金格差があることをめぐる訴訟で、手続き上の問題で原告の訴えを却下しましたが、ギンズバーグ氏は議会に立法措置を促す反対意見を法廷で朗読し、これがきっかけとなった法改正が2年後に実現したのです。反対表明の際に使った「私は、同意しない」という言葉がよく知られています。
「性差別の解消」はアメリカではまだ実現していませんが、ギンズバーグ氏の法律家としての取り組みが着々と社会を変えてきたことで、アメリカの女性の社会進出は前進し、共働き家庭は2012年には60%に増えました。
連邦議会の女性議員は1970年代の5%未満から20%を超え、最高裁判事も9人中3人を女性が占めました。ギンズバーグ氏の反対意見が社会を動かしたのです。
「男性優位の社会を一つひとつ解体した」
ギンズバーグ氏が亡くなったあと、アトランティック誌(正統派評論誌、伝統ある月刊誌)は「RBG(ギンズバーグ氏の愛称)の指紋は日々の生活のいたるところに残されている」との記事を配信しました。
女性の権利運動に関わり、職場などでの子を持つ女性に対する差別問題に取り組んできた、カリフォルニア大へイスティングス法科大学院のジョン・C・ウイリアムズ教授は「1970年代の米国では、男性が稼ぎ、女性が家を守るという考えが法律や制度に深く根ざしていた。ギンズバーグ氏はこれを一つひとつ解体していった」。
「母親差別はギンズバーグ氏が手を付けなかった問題の一つ。だが、ギンズバーグ氏が築いた基礎があったからこそ私たちの取り組みに道が開けた」と話しました。
※ジョン・C・ウイリアムズ教授=『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』の著者。
「私たちはそこから学び、より良い日を迎えられる」
ギンズバーグ氏は女性の入学を禁じた軍事学校の慣例を違憲とし、黒人や性的少数者の権利も擁護しました。
アメリカ連邦最高裁判事は毎年、若手弁護士らから選ばれた4人の助手と働くのですが、ギンズバーグ氏は男女2人ずつ選ぶことが多かったそうです。
性差別撤廃訴訟に数多く関わり、女性の権利向上に尽くしたことから、「RBG」(頭文字)と呼ばれ、多くの国民から親しまれました。
「米国ではひどいことが起きていたが、私たちはそこから学び、より良い日を迎えられる」。ギンズバーグ氏の言葉です。
世界的な有名人になっても変わることなく、自分の仕事をひたすら続け、的確な言葉を選んで、自分の意見を社会に届けるというギンズバーグ氏の行動には、多くの学ぶことがあります。
※ギンズバーグ氏の半生をたどったドキュメンタリーや若き日を描いた映画は日本でも公開されました(「ビリーブ未来への大逆転」「RBG最強の85歳」など)。
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「関生事件」が揺るがす労働基本権
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641日勾留された武委員長が語る
「関西生コン事件」で逮捕された武建一委員長は今年5月29日、641日ぶりに保釈された。その1ヵ月後に収録されたロングインタビューをまとめた本が昨年12月10日発刊された。
・一連の事件は、なぜ起きたのか?
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・武建一という人物はいったい何者なのか?
そんな疑問に事実をもって答える1冊。ぜひ、お読みください。『武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか』
発行・旬報社、四六判218ページ、定価1500円+税
*全日建(全日本建設運輸連帯労働組合)にお申し込みいただければ頒価1500円(送料込み)でお届けします。多部数の場合はお問い合わせください。
お問い合わせ03-5820-0868
【目 次】
第1章 刑事弾圧
641日にもおよんだ勾留生活/なぜ私は逮捕されたのか/協同組合の変質/労組破壊に参加したレイシスト
第2章 「タコ部屋」の過酷労働
私の生い立ち/「練り屋」と呼ばれて/労働運動に目覚める/関生支部の誕生/初めての解雇
第3章 闘いの軌跡
万博不況とオイルショック/ヤクザと生コン/経済界が恐れる産業別労働運動
第4章 大同団結
安値乱売で「がけっぷち」/大阪広域協組の誕生/シャブコン/2005年の弾圧事件/ゼネスト決行/目指すべき場所
解題・安田浩一(ジャーナリスト)
皆様には御元気で御活躍のことと存じます。
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このたび、著書『大資本はなぜ私たちを恐れるのか』を昨年12月10日に発行する運びとなりました。
今日まで、私は、会社の雇ったヤクザに5回以上殺されかけたり、刑事事件をでっち上げられ前科5犯にさせられています。
1980年代には日経連の大槻文平会長(当時)から「関生型運動は資本主義の根幹に触れる」と言われ、国家権力とマスコミからは「生コンのドン」「金を企業からむしり取る」などとして「反社会的勢力」とレッテルを貼られています。
それはなぜか。歴史と今日を振り返り、事実を元に書かせていただいています。
是非、一読下さい。
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