「1965年10月関西地区生コン支部は結成された」
1965年10月、大阪の生コン企業の輸送(ミキサー運転手)労働者が、関西地区生コン支部を結成しました。
当時の労働条件は、歩合給と長時間労働にしばられ「子どもの寝顔しかみられない」という、非人間的労働の改善を求めた闘いでは、相次ぐ組合つぶしの張本人として、生コン産業を支配する背景資本のセメントメーカーの使用者責任を追及した結果、関扇運輸・大豊闘争などその後の運動モデルとなる厳しい闘争の勝利で急速に組織が拡大しました。
「生コン業者団体との集団交渉で産業別労働協約を締結した」
1974年第一次オイルショックで企業の倒産が続出するなか、関生支部は中小企業政策を発表しました。セメント独占の産業支配と闘うために、労働組合と中小企業の提携を推進したのです。
集団交渉では、労働条件の統一を求め生コン業者団体との労働協約の締結を求めました。
1981年、関生支部は大阪兵庫生コンクリート工業組合と産業別年金や雇用保障の創設など32項目の労働協約を締結しました。この生コン業者団体と関生支部が産業別労働協約を締結したことが、社会的な注目を浴びたのです。
また、生コンの原料であるセメント価格の値上げ阻止や供給過多に陥っている生コン工場の新増設の抑制など、労働者の雇用安定と中小企業の経営安定を実現する運動が前進しました。
1982年の集団交渉は、180工場の代表者300人が参加するマンモス交渉としてニュースでも放映されました。
なお、この産業別労働協約は、生コン産業で働くすべての労働者(労組に入っていない労働者も含む)に拡張適用されました。
「産業別運動の前進に危機感をもった財界」
関生支部の産業別運動の前進に、嫌悪と危機感を持ったセメントメーカーは、当時の日経連会長の大槻文平(三菱鉱業セメント会長)の「資本主義の根幹に触れる運動は許せない」との号令のもと、セメント協会と大阪府警に「関生支部弾圧対策プロジェクト」を発足させたのです。それ以降、権力弾圧と組合つぶし攻撃が関生支部に襲いかかりました。
「日経連が主導する権力弾圧が関生支部に集中した」
日経連・セメントメーカー・警察は、産業別運動つぶし・労働組合つぶし攻撃を仕組んだことから、刑事弾圧が集中しました。警察権力は、正当な争議行為を傷害・威力業務妨害と事件をでっち上げました。さらに、労使間で協定した解決金支払いを恐喝・強要と事件をでっち上げ、80年から82年だけでも38名以上もの役員や組合員を不当に逮捕したのです。
これらの刑事弾圧は、関生支部を社会的に孤立させることが狙いなのです。
他方では、セメントメーカー直系の生コン企業が「弥生会」という名の労務機関を発足させ、これまでの運動の成果である生コン業者団体との労働協約をすべて破棄しました。また、団体交渉を拒否し、労働条件の改悪を一方的に通告して強行する行為におよんだのです。
さらに加えて、当時の関生支部の上部団体である運輸一般と日本共産党は、弾圧の波及を恐れて、関生支部の分裂策動に乗り出しました。
「関生支部は、弾圧と闘える態勢づくりを整える」
1984年3月、関生支部は運輸一般と決別して、個人加入制・産業別運動・大衆運動路線・人権重視・背景資本(親会社への雇用責任の追及)・反独占業界民主化政策などで一致する全日建と合流して、連帯労働組合を結成し、権力弾圧と闘う体制をつくりました。
新たな産業別労働組合、連帯労組の誕生により、東京のセメント直系工場での組織化と関東地区生コン支部の結成などの成果があがったのです。この成果は、オルグ養成、幹部教育など組織整備と強化をはかりながら、全国に組織拡大活動を展開したことによるものです。
「おそいかかる弾圧の嵐」
資本と権力が一体となった弾圧は続きます。1984年12月には、タイコー社のストライキに警察が介入。85年4月には、菱木生コン事件で組合事務所を不当捜索。セメントメーカーへの申し入れでは、社内に私服刑事が待機するなど、露骨な弾圧をしかけてきました。
不当逮捕された組合員は、取り調べの警察官に「こんな腐った事件で起訴できると思わん。お前らをここに20日間閉じこめただけで成果だ」「お前らのは労働運動じゃない。企業をこえた連帯など許さん」と言われたそうです。
この警察官の発言は、産業別運動・労働組合つぶしが目的の不当な弾圧を言い表しています。