関生支部の闘いとユニオン運動・第10回 「政党による労働組合介入の思想-赤色労働組合主義」
…第9回からのつづき
関西生支部への共産党の分裂・脱退攻撃の本質は、政党による労働組合への組織的な介入にありました。もちろん労働組合のなかで政策や戦術をめぐっての意見の違いが生じるのは当然のことです。関生支部でも運動のやり方で意見の対立はありました。また組合内でグループができるのもあり得ることです。その対抗で執行部が変わることもあるでしょう。
しかし、労働組合の外部の政党が、党グループを通じて介入するのは、「労働組合の政党からの独立」の原則からあってはならないことです。しかし何故おきてしまったのでしょうか。それはとても根深いし、現代史の学術研究の対象にすべきほど重要だと思います。
「産別会議の自壊現象」
またやってしまった。関生問題で、敗戦直後の労働運動をいくらか知っている人はそう思ったかもしれません。この時期の労働運動が衰退したのは、1947年「2.1ゼネスト」への占領軍による中止命令、あるいは1950年「レッド・パージ」によるものと思われがちです。だが真相はその中間の時期にあります。特にゼネスト中止後の産別会議内部の混乱です。
この時期が革命的情勢だったかどうかはおきますが、変革主体は極めて脆弱だったことは確かです。戦前には産業別労働組合は確立できず、1920年代には大企業で労働者の企業別分断がなされ、戦中には産業報国会という企業別従業員組織ができていました。戦後の企業別組合はこの産業報国会の「裏返し」ともいわれています。
このような労働組合・労働者を産別会議は民主主義革命を目指し、政府打倒のゼネストへと駆り立てていったのです。突然のゼネスト中止で混乱が起きました。一般組合員の中から、共産党による組合の引き回しや、政治イデオロギーへの偏向などに対する批判が高まりました。それが多くの単産による産別会議の自己批判の要求へと動いていったのです。産別会議本部はそれに応えようと議論をしました。そして1947年5月18日に臨時執行委員会を開催し、「産別自己批判及び方針」を満場一致で決定したのです。このように、正式機関の審議と決定を経て臨時大会の準備がなされました。
ところが、臨時大会の前日、7月9日に共産党は、大会代議員の共産党員を代々木の本部に招集しました。そのフラクションの会議で、当時の共産党書記長・徳田球一が、産別会議の自己批判は「坊主ざんげ」であり、ブルジョア偏向で危険であるとして、自己批判を行わないことを指示し、会議で決定したのです。臨時大会では、共産党の代議員の力で執行委員会の自己批判は葬り去られました。
ここから産別会議の自壊現象が生じます。多くの単産が脱退していきました。1948年2月に産別民主化同盟(民同)ができますが、この民同が成長するよりも、むしろ1950年に占領軍の後ろ盾のもとで結成された総評がその後の労働運動の主流の座にすわることになります。産別会議と産別民同の指導部はいくらかでも産業別組合の志向を持っていましたが、総評は企業別労働組合主義を克服する姿勢はありませんでした。
「赤色労働組合主義」
この労働組合への政党の組織介入を正当だとする考えが赤色労働組合主義です。一般の組合員にとっては身近ではないでしょうが、じつは日本の労働運動の裏面史を彩る装置なのです。岩波小辞典『労働運動 第二版』(1956年)では、赤色労働組合主義とは「労働組合の基本的目標を革命的階級闘争への労働者の組織化・訓練・動員による社会主義革命におくもの」とあります。つまり労働組合を革命の道具として政党が利用することです。これが「道具」論です。
そして、そのために労働組合の内部に党員グループ(フラクション)をつくります。政党がそのフラクションを通じて労働組合を指導します。二つをベルトでつないでいるので「伝導ベルト」論といいます。
さきほど「裏面史を彩る」と言いましたので、例をあげます。戦後直後、1946年に総同盟と産別会議を準備するそれぞれの者たちが、統一する方向で話し合われていました。ところが突如として共産党は産別会議の独自結成を決めます。つまり革命のための「道具論」が通用するためには、政党下請けのような全国組織が欲しかったのだと思います。同じようなことが1989年の全労連結成です。労使協調の労働戦線再編問題がおきた1980年代の初頭に、早々とナショナル・センターの独自結成を打ち出しました。それが結局は総評再建の道を不可能にしたのです。また、この共産党の1*980年代初頭の動きと1982年の関生問題とは無関係ではありません。
さて、日本における赤色労働組合主義の歴史には謎があります。小辞典『労働運動』では「第一次大戦後の左翼労働組合の指導理念」であるとされ、しかし「労働者大衆から孤立する結果を生み、やがて人民戦線戦術運動のなかで共産主義の立場からも否定されるにいたった」とされています。
否定されたのは、1935年のことです。コミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採用されたことことによります。それによりフランスで労働戦線が統一しました。それは「二つの重要決定にもとづいてなされたものだ。すなわち一つは組合の政党からの独立であり、二つはフランクション活動の禁止であった」(『日本労働運動史 細谷松太著作集1』)。イタリアでも労働者の「統一」の立場から「必然的に要求」されるとして、「《伝導ベルト》理論は、決定的に一掃する必要がある」と強調されました(『労働者の統一』大月書店)。
それではなぜ日本で、亡霊が蘇ったのでしょうか。蘇ったのではないのです。共産党は1922年に結成されますが、民衆に根づくことなく、1925年の治安維持法の弾圧の対象になり、運動は消滅します。少数の者は獄中にて、そのコミンテルンの大転換は届かなかったのです。
産別会議の議長をつとめたことがある吉田資治は「統一戦線方式」を「受け皿の方が壊滅状態で、残っていたものが入れようとしたけれど、やられてしまったということです」「戦後労働組合に関係した人の頭はロゾフスキーの頭であったと思います」(「産別会議の結成と組織・指導」)と述べています。だから、戦後労働運動の多くを担うことになった共産党系の活動家にとって、歴史は再び1920年代から回り始めたのです。ここに日本の戦後労働運動の大きな混乱を生み出す歴史的背景がありました。
「労働組合つぶしの大弾圧を許さない実行委員会」への賛同の呼びかけ PDF
「関生事件」が揺るがす労働基本権
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641日勾留された武委員長が語る
「関西生コン事件」で逮捕された武建一委員長は今年5月29日、641日ぶりに保釈された。その1ヵ月後に収録されたロングインタビューをまとめた本が昨年12月10日発刊された。
・一連の事件は、なぜ起きたのか?
・関生支部とはどのような労働組合なのか?
・武建一という人物はいったい何者なのか?
そんな疑問に事実をもって答える1冊。ぜひ、お読みください。『武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか』
発行・旬報社、四六判218ページ、定価1500円+税
*全日建(全日本建設運輸連帯労働組合)にお申し込みいただければ頒価1500円(送料込み)でお届けします。多部数の場合はお問い合わせください。
お問い合わせ03-5820-0868
【目 次】
第1章 刑事弾圧
641日にもおよんだ勾留生活/なぜ私は逮捕されたのか/協同組合の変質/労組破壊に参加したレイシスト
第2章 「タコ部屋」の過酷労働
私の生い立ち/「練り屋」と呼ばれて/労働運動に目覚める/関生支部の誕生/初めての解雇
第3章 闘いの軌跡
万博不況とオイルショック/ヤクザと生コン/経済界が恐れる産業別労働運動
第4章 大同団結
安値乱売で「がけっぷち」/大阪広域協組の誕生/シャブコン/2005年の弾圧事件/ゼネスト決行/目指すべき場所
解題・安田浩一(ジャーナリスト)
皆様には御元気で御活躍のことと存じます。
この間、全国の多くの皆様より私たち関生支部に対する国家権力と大阪広域生コンクリート協同組合、差別排外主義者集団が一体となった攻撃をはね返す闘いに、多大な御支援をいただきまして誠にありがとうございます。
このたび、著書『大資本はなぜ私たちを恐れるのか』を昨年12月10日に発行する運びとなりました。
今日まで、私は、会社の雇ったヤクザに5回以上殺されかけたり、刑事事件をでっち上げられ前科5犯にさせられています。
1980年代には日経連の大槻文平会長(当時)から「関生型運動は資本主義の根幹に触れる」と言われ、国家権力とマスコミからは「生コンのドン」「金を企業からむしり取る」などとして「反社会的勢力」とレッテルを貼られています。
それはなぜか。歴史と今日を振り返り、事実を元に書かせていただいています。
是非、一読下さい。
心より愛をこめて
武 建一
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