「本土の平穏」は誰の犠牲の上に立つのか(後編)
前編では、1950年代に本土で激化した内灘・砂川闘争が、結果として米軍基地機能を沖縄へ「押し出す」契機となった歴史を検証しました。日米両政府は、日本国内の政治的混乱を回避するために、憲法の制約を受けず抵抗を抑え込みやすい「施政権下の沖縄」を、基地の恒久的な受け皿として選択しました。
無意識の差別を解体する
平和の影に隠された「犠牲のシステム」
戦後から現在に至るまで、沖縄は本土の平和を支える「防波堤」として機能させられてきました。しかし現在、この構造的差別を是正しようとする動きは、新たな政治的・法的な壁に直面しています。
保守政治の「安全保障論」と沖縄の「構造的差別」
埋めがたい矛盾
現在の保守政治を牽引する高市早苗氏らが掲げる「強い日本」や「日米同盟の抑止力強化」という方針と、沖縄が切実に求めている「構造的差別の解消」との間には、埋めがたい決定的な矛盾が存在します。高市氏は台湾有事などを念頭に、沖縄を「防衛の最前線」と定義し、基地機能の強化や自衛隊の配備拡充を推し進める立場を取っています。しかし、そこには基地負担の軽減や日米地位協定の抜本改定といった、沖縄が長年訴え続けてきた「主権の回復」という視点が著しく欠落しています。
国家権力の強化と地方自治の窒息
高市氏が目指す安全保障観の本質は、国権を強化し、有事の際の国家の即応性を高めることにあります。これは、名護市辺野古の新基地建設において民意をねじ伏せた「代執行」に象徴されるように、「国益」の名の下に地方自治や個人の権利を従属させる論理と地続きです。沖縄が求めているのは、国権に隷属しない「地方自治の本旨」の回復であり、高市氏の目指す中央集権的な強い防衛体制とは、その出発点からして真っ向から対立するものです。
さらに深刻なのは、過去に基地を押し付けた側である本土(内地)が、この問題をいまだに「沖縄の問題」として客体化し、自分事として捉えていない点にあります。沖縄側から見れば、戦後一貫して不利益を押し付けておきながら、平時になればその負担に無関心を決め込む本土の態度は、「無意識の差別」に他なりません。この構造的な無関心こそが、対立をより根深いものにしています。
高市氏らが唱える安全保障の強化が、もし沖縄の犠牲の上にのみ成り立つのであれば、それは真の意味での「独立国家の主権」とは呼べないはずです。内地の人間がこの歴史的経緯を自らの責任として引き受け、沖縄の不満を「正当な権利の主張」として受け止めない限り、いかなる安全保障論も、脆弱な砂上の楼閣に過ぎないと言わざるを得ません。
地方自治の危機と全国的な連帯の萌芽
名護市辺野古の新基地建設を巡る法的争いは、単なる基地の是非を超えて、地方自治法の根幹を揺るがす論争となっています。政府が代執行を強行する姿は、憲法92条が保障する「地方自治の本旨」を空文化させる危うさを孕んでいます。
しかし、この危機は同時に、本土の自治体にも変化をもたらしています。全国知事会が全会一致で日米地位協定の見直しを提言し、地方議会でPFAS汚染※などの問題を背景に地位協定改定の意見書が採択されるなど、「沖縄の苦しみ」が「自分たちの主権の問題」として再定義され始めています。ドイツやイタリア並みの地位協定改定を求める声は、今や沖縄の孤立した叫びではなく、日本全体の民主主義を守るための共通課題となりつつあります。
沖縄の犠牲に安住する民主主義への断罪
私たちが真に「共生」という言葉を口にするならば、もはや安全保障のコストを沖縄という特定の地域にのみ押し付け、そこから目を背け続けてきた「恥辱」の歴史を終わらせなければなりません。かつて内灘や砂川の地で、当時の日本人が身を挺して示した「土地と生活を守る権利」への執念は、今、沖縄の不屈の闘いのなかにこそ脈々と受け継がれています。現在進行形の辺野古訴訟や日米地位協定の見直しを巡る動きは、沖縄を法も正義もおよばない「例外的な空間」として切り捨て、都合よく利用し続けてきた戦後日本の不誠実さを正すための、文字通り最後にして最大のチャンスなのです。
本土の欺瞞と「歪んだ統治構造」への抗い
ここで問い直されるべきは、沖縄の反基地運動に対する本土側の、欺瞞に満ちた態度です。沖縄との連帯とは、単なる憐れみや同情による「救済」ではありません。それは、国家権力が「国益」という大義名分を振りかざし、地方の民意を一方的に蹂躙することを許容している「歪んだ統治構造」そのものに立ち向かう闘いです。沖縄の権利を奪い、沈黙を強いることが許される社会は、いつか必ずその牙を本土の自治体や市民にも向けることでしょう。この闘いは、死に体となった日本全体の民主主義を再生させるための、私たち自身の闘いでもあるのです。
「他人事」を終わらせる自治体と司法の責任
歴史が証明している「しわ寄せ」の残酷な構図を、私たちの世代で終わらせる責任があります。本土の各自治体は、基地問題や地位協定を「沖縄の問題」として他人事のように見るのを即刻やめ、自らの主権を脅かす危機として対峙すべきです。そして司法もまた、行政の追認機関に成り下がるのではなく、憲法が保障する「地方自治の本旨」を重んじる本来の良識を、今こそ取り戻さなければなりません。
無関心という「不道徳」の解体と真の共生
戦後一貫して、沖縄に過酷な負担を強いることで享受してきた「偽りの平和」は、もはや維持し得ない限界点に達しています。この構造的な差別に無自覚であることは、その差別に加担していることと同義です。本土の人間が自らの主権の問題として地位協定に立ち向かい、司法が権力の暴走を阻む盾となること。その険しくも避けて通れない闘いの積み重ねこそが、日本という国家が抱え続けてきた「戦後」という名の過渡期を真に終わらせる唯一の道です。沖縄との対等で誠実な共生を築くための道は、今の日本人が抱える無関心という名の「不道徳」を徹底的に解体した先にしか存在しないのです。
それは、かつて自分たちが主権を盾に拒絶した重圧を、主権を持たなかった隣人に押し付けたという歴史的罪責を、私たち内地の人間が自らの主権の問題として引き受けることから始まります。
真相はこれだ!関生事件 無罪判決!【竹信三恵子の信じられないホントの話】20250411【デモクラシータイムス】
ご存じですか、「関西生コン」事件。3月には、組合の委員長に対して懲役10年の求刑がされていた事件で京都地裁で完全無罪判決が出ました。無罪判決を獲得した湯川委員長と弁護人をお呼びして、竹信三恵子が事件の真相と2018年からの一連の組合弾圧事件の背景を深堀します。 今でも、「関西生コン事件」は、先鋭な、あるいは乱暴な労働組合が強面の不法な交渉をして逮捕された事件、と思っておられる方も多いようです。しかしそうではありません。企業横断的な「産別組合」が憲法上の労働基本権を行使しただけで、正当な交渉や職場環境の改善運動だったから、強要や恐喝など刑事事件には当たらないものでした。裁判所の判断もこの点を明確にしています。では、なぜ暴力的組合の非行であるかのように喧伝され、関西全域の警察と検察が組織的に刑事事件化することになったのか、その大きな背景にも興味は尽きません。 tansaのサイトに組合員お一人お一人のインタビューも連載されています。ぜひ、どんな顔をもった、どんな人生を歩んできた人たちが、濡れ衣を着せられ逮捕勾留されて裁判の法廷に引き出されたのかも知っていただきたいと思います。
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増補版 賃金破壊――労働運動を「犯罪」にする国
勝利判決が続く一方で新たな弾圧も――
朝⽇新聞、東京新聞に書評が載り話題となった書籍の増補版!関生事件のその後について「補章」を加筆。
1997年以降、賃金が下がり続けている先進国は日本だけだ。そんな中、関西生コン労組は、労組の活動を通じて、賃上げも、残業規制も、シングルマザーの経済的自立という「女性活躍」も、実現した。そこへヘイト集団が妨害を加え、そして警察が弾圧に乗り出した。
なぜいま、憲法や労働組合法を無視した組合潰しが行なわれているのか。迫真のルポでその真実を明らかにする。初版は2021年。本書はその後を加筆した増補版である。
◆主な目次
はじめに――増補にあたって
プロローグ
第1章 「賃金が上がらない国」の底で
第2章 労働運動が「犯罪」になった日
第3章 ヘイトの次に警察が来た
第4章 労働分野の解釈改憲
第5章 経営側は何を恐れたのか
第6章 影の主役としてのメディア
第7章 労働者が国を訴えた日
エピローグ
補章 反攻の始まり
増補版おわりに
映画 ここから 「関西生コン事件」と私たちこの映画は「フツーの仕事がしたい」「アリ地獄天国」など労働問題を取り上げ注目を浴びている土屋トカチ監督の最新作。「関西生コン事件」の渦中にある組合員たちの姿を描いた待望のドキュメンタリー映画『ここから「関西生コン事件」と私たち』がこのほど完成。業界・警察・検察が一体となった空前の労働組合潰しに直面した組合員と家族の物語を見つめた。(左写真は松尾聖子さん)いまも各地で上映会がひらかれている。
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